私たちJLCAは、ベスト・ファーザー賞 in 関西、ベスト・プロデュース賞、日本生活文化フォーラムを通じて、豊かで健全な社会づくりに寄与することを目的に活動いたします。

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2018年度 第12回 ベスト・ファーザー賞 in 関西

特別賞


「星野さんを見返したい」がパワーの源だった

出会い、再会、そして突然の別れを、丁寧に話してくれた矢野さん。
 今年1月4日。恩師・星野仙一の訃報を矢野燿大はテレビニュースで知った。「野球殿堂入りのパーティーでお会いできたのが最期になってしまいました。体調がすぐれないとは聞いていまたが……とてもショックでした」
 〝初めての出会い〞は、東北福祉大を卒業後、ドラフトで当時星野さんが監督を務めていた中日ドラゴンズに入団した1990年まで溯る。その頃を矢野さんは苦笑いを交えながら、こう振り返る。「そら、最悪でしたよ(笑)。むちゃくちゃ怖かったし、キャンプの練習もしんどかったし……。毎朝、目覚ましがなるたびビクビクしていた。また今日も始まるのか、と。でも、最初に星野さんと野球をやらせていただいたおかげで、そこが基準というか、一番きついところからスタートできたので、後はどこへ行っても大丈夫になりました」

 星野監督のもとでは悔しさも味わった。1997年、トレードで阪神に放出された矢野さんは「星野さんを見返したいという気持ちが、その時の僕のパワーの源でした」と告白する。しかし5年後、その星野さんが監督として阪神へ。まさかまた同じチームで……と、戸惑いを隠せなかった矢野さんの眼前に再び現れた星野さんは、〝以前〞とは随分違う印象だったらしい。「中日と阪神の両方を知っているのは僕だけ。良い意味で僕を仲介役として利用し、『今岡の調子はどうだ?』『藪は大丈夫か?』と、頻繁にコミュニケーションを取りにきてくださって。なんか優しいなあ……と、びっくりしましたね」


身体に染みついている「熱血」という名の星野イズム
 選手生活の終盤、星野さんには二度、人生の相談に乗ってもらった。一度は年俸を70%カットされたとき。球団から「戦力外」同様の通告をされ、他のチームでもう一回レギュラーを取るためにトライするか、そのまま阪神に残るか……悩みに悩んだすえ、矢野さんの頭に浮かんだのは星野さんだった。「星野さんに連絡を入れ、一緒に食事、焼きそばを食べさせてもらったんです。そして、『やめるな。お前は阪神に残れ。(メジャーリーグから阪神に移籍が決まった)城島が来たら試合出られへんやろうけど、自分がコーチやったら、自分が監督やったらどういう風にするかを考えながら、お前は野球を見なあかん!』と諭され、ようやく吹っ切れた。やっぱりそれが一番なんだろうな……と残留を選びました」

 もう一度は、ユニフォームを脱ぐ決断をしたとき。当時、星野さんがよく行っていたコーヒーショップで引退を報告した。「次どうするんや?」と聞かれ、「いったん外から野球を勉強してみたい」と答えたら、「俺もええ勉強になった。よし、勉強してこい!」と、矢野さんが描くセカンドキャリアプランを後押ししてくれた。これらの2人きりで話し合った〝貴重な時間〞は最高の想い出だと、矢野さんは目を潤ませる。

 現在、阪神の2軍監督として〝選手を育てる立場〞にある矢野さんは、「結局はいつも、星野さんの教えをそのまま使わせていただいてるな」と気づくことがあるという。「グラウンドで敵チームの選手とぺらぺらしゃべるな」「雨の中、お前らはベンチでしのげるけど、ファンは濡れながら応援してくれてるねんぞ。少しでも喜んで帰ってもらえるよう頑張らんかい」││勝負への姿勢は徹底していた。選手が野球に専念するため、障害になることは極力排除した。それは自身に対しても例外ではなく、亡くなる直前も、大学以来の後輩で星野さんにもっとも近かった平田勝男・阪神タイガースコーチにさえ、指導の妨げになると病状を明かさなかった。そういった星野イズムの根元である「熱血」は、30年近くの時を経て、矢野さんへと確実に引き継がれている。



時折、本当に寂しそうな表情を見せた矢野さん。
星野さんは僕の野球人生すべて

日刊スポーツ提供
 もし、星野さんがお父さんだったら?
 そんなことを矢野さんに伺ってみた。「とにかく、優しさと厳しさの振り幅がすごい方だったので……。叱られる時は思いっきり叱られますし、褒めてもらえる時は思いっきり褒めてくださる。それこそが星野さんの魅力で、だからみんな星野さんが大好きなんだと思うんです。父親だったら……子どもの時は、たぶんめっちゃおっかなかったでしょうね(笑)。ただ、大人になって客観的に星野さんのことを見られるようになれば、『この親父の息子でよかったな…』って、自然と誇りに感じることができるのではないでしょうか」

 インタビューの終わりに、矢野さんは「一つ後悔があるんです」と打ち明けてくれた。「実は赤星のように僕も星野さんの懐に、胸に飛び込みたかったんですよ」。2003年のリーグ優勝のとき、サヨナラヒットを打った赤星選手がベンチ前で星野監督に抱きしめられ、頭をもみくちゃにされた││あの場面だ。「僕の性格と昔の怖いという印象が染み付いてて、そういう機会も何度かあったけど、飛び込めなかったんですよね…。それが自分の中では心残りで…」

 星野さんがいなかったら、トレードも優勝も、阪神の2軍監督をやらせてもらうこともなかったでしょうね……と何度も繰り返していた矢野さん。「星野さんは僕の野球人生すべて。せめて『本当にありがとうございます』と感謝の気持ちを、ご本人に直接ちゃんとお伝えしたかったですね・・・」

 そうしみじみと語る姿は、まるで失った父を永遠に慕う息子のようであった。


プロフィール 星野仙一 Senichi Hoshino
  • 1947年1月22日、岡山県生まれ。
    明治大学卒業後、1969年ドラフト1位指名で、中日ドラゴンズに入団。
  • 1974年にはエースとして中日を優勝に導き、沢村賞を獲得。
    引退後、中日ドラゴンズ監督に就任、2度のリーグ優勝を果たす。
  • 2001年、阪神タイガース第29代監督に就任。
  • 2003年、チーム18年ぶりのリーグ優勝に導き、同年の日本シリーズ直後に勇退。
  • 2008年8月、野球日本代表監督として、北京オリンピックに出場。
    “闘将”の魂を受け継いだ教え子が恩師に届けたかった“最後の言葉”。
  • 2010年10月、東北楽天ゴールデンイーグルス監督に就任。
  • 2012年5月には、史上12人目の監督通算1000勝を達成。
  • 2013年球団創設9年目にして初のリーグ優勝に導き、同年11月3日、日本シリーズを制覇し、監督通算16年目で自身初の日本一を達成。
    二度目の正力松太郎賞を獲得。
    翌年、2014年、シーズン終了と共にユニフォームを脱いだ。
  • 2017年1月、野球殿堂入りを果たす。
  • 2018年1月4日、永眠 享年70歳。
■ 選手通算成績 500試合 146勝 121敗 34S 防御率3.60
■ 監督通算成績 17年1181勝(歴代10位)